中京医薬品・会長のブログ

山田正行
※旧・社長のブログ
思うままに No.284

   

※エッセー「思うままに」より 〜毎月更新〜

 

 「やらされる」と「やる」とでは天と地ほどの差がある。人間力の優劣を分ける。また人生の善し悪しを大きく左右する。やらされるというのは第一に精神衛生上よくない。いやいやしぶしぶだから細胞も萎えて健康上にも悪い。何事につけても一事が万事受身で指示待ち。自らすすんでやることがない。依存心が強く言わば怠け者特有の性情ということか。

 

 誰一人として豊かな人生を望まない人はいないのに、こういう人は分ってか分らずか徒らに人生をしぼませている。自分のみならず周りをも貧しくする。もったいないことだ。

 

 一方やる人というのは元気はつらつさわやかで気持がいい。つねに目的目標が明確だ。立てた計画にそって能動的に実行に移す。成果を出すには他の人たちと協力し合うことの大切さをとくと承知しているから、周りへの配慮にはことのほか意を注ぐ。だから人望も信頼も厚い。

 

 さてやる気を起すには何よりも本気にならなければならない。それには事訳をよく得心することでその気になれる。また自分はああなりたいと切に願望をもつことから生れる。

 

 一方「まだ他がある」「そのうち誰かがやってくれるだろう」というような、場当り的や気休め、あなたまかせになると人はとても本気にはなれないものだ。本気になるキーワードは、道理、実利、危機の三つだ。「なるほどそういうことか」「これは役に立つ、為になる」「このままでは危ない」というように。

 

 こんな話がある。

 

 昔昔、ある村で日照りが長く続いて田畑の作物がいよいよ心配になってきた。このままでは全滅だ。何とかしなければと村人たちは皆で相談し鎮守の杜で雨乞いの儀式を行うことに決める。村中の老若男女全員集合で天に向ってお祈りをするのだ。ところが雨乞いをするというのに誰一人、雨合羽を持参していない。本音はどうせ雨など降るものかとはなから諦めているのだ。ただ不参加になると村八分が恐いからしかたなく集っているのだ。そんな時、杜の片隅で今か今かと雨が降るのを信じたただ一人、合羽を被って真顔で空を仰ぎながら、じっと待つ子供がいる。この子は本気になってやってきたのだ。大人たちの格好を見て「どうして皆は合羽をもってきていないのかなぁ」とぼそっと独り呟く。冷めた目で見ながら。

 

 ところでお馴染みのTVCMソングに、<この木なんの木気になる木、見たこともない木ですから、見たこともない・・・>がある。木は木でももっと多くを見たいのが本気の気だ。この気は勇気と根気をつくる。この立派な大木のように、本気こそが人生を伸び伸びと繁らせ、豊かにしてくれる。

カテゴリー:エッセー「思うままに」
思うままに No.283

   

※エッセー「思うままに」より 〜毎月更新〜

 

 自信というものは微妙なもので、ちょっとしたことで持てたかと思うと、またちょっとしたことで失くす。これをくり返しながら徐々に自信は固まり強くなっていく。自信をもつことは成功の扉を開く秘訣を得たのも同然だ。人はいったんこれをもち始めると思いもよらない力を発揮する。ひとつの自信がまたひとつの自信を生み、連鎖、蓄積されていく。

 

 そうしてより高みに向って挑戦心が湧いてきて、面白いように人は実力をつけ、さらに伸びていく。こういう人たちはどこの世界も同じで自己に忠実でなすべきことを愚直にやり続ける人たちだ。自信が高じて信念となり諦めや言い訳がいかに無益で大敵になることをよく分っている人たちだ。

 

 ただ自信は凄い力をもつが、その反面、過信、慢心の落し穴には常に留意をしておかなければならない。その主因は周りへの配慮や感謝の念が欠如するときに起こる。

 

 さて自信とは読んで字の如く、自分を信じると書く。先ず誰よりも先に自分を信じることから自信は生れる。自分を信じるとはどういうことか。それは自分がいま懸命にする努力が、先々必ず成果につながるものと信じて疑わないことを言う。

 

 世の中のことすべて信頼で成り立つ。これを築くには誠実と時間を要する。そこでだ。人様から信頼を得たいと思う前に、せめて自分が自分にした約束を果して、内なる自分の信頼を得るよう努めることだ。それがひいては周りからの信頼を厚くする。自分が自分を信じないで、誰が自分を信じてくれるというのか。やるべきことはすべてやった。もうこれ以上やれることはないと、この一生懸命が自信を生み人の心を打つ。

 

 自信をつくるべく努力を促し駆り立てるものが志や勇気、希望だ。これらの言葉は因果で繋がり自信へと一直線に連なる。自信の連鎖は自ずと確信へと変わっていく。

 

 ところで何をやってもうまくいかない気の毒な人がいる。この人たちに共通するのは、やる前から自分には到底できないものと決めつけ諦める人たちだ。肝心の努力や準備を疎かにする。これって虫がよすぎはしないか。自分に甘いからといって人や世の中を甘くみてはいけない。

 

 かなりレベルが高いが<駿足長阪を思う>という言葉がある。良い馬は長い坂道があればよいと思う。平易よりも困難を望む。その方が必ず自分の為になると考え、臆せず、それに向って懸命の努力が確たる自信につながることを確信しているからだ。

カテゴリー:エッセー「思うままに」
思うままに No.282

   

※エッセー「思うままに」より 〜毎月更新〜

 

 人を育てるというのは簡単なことではないが、その立場にある人には、大事な使命のひとつだ。それを果すためになすべきことは向上心をもって先ず自らが自らを育てんとする意志と勉励が求められる。

 

 人を育てる基本は言うまでもなく相互の信頼が要る。その上で褒める叱るの二つの言葉が有効に働く。褒める叱るは反対語ではない。二つの言葉にはそのもつ意味が相互に含まれている。褒めの中に叱りがあり、叱りのなかに褒めがある。二つの言葉は同意語のようなものだ。いま、自分の来し方を振り返るに褒められたことよりも叱られたことのほうがはるかによく覚えている。

 

 褒められることは気分のよいことに違いはないが、場合によってはかえって気色の悪いこともある。褒め殺しや、見え見えのお世辞など。タイミングとポイントがずれると逆効果になる。きつい叱りほど骨身にしみる。その時は浅はかにもこんちくしょうと敵愾心さえもつこともあったがいま思えば愚かで恥ずかしい限りだ。このこんちくしょうを人に向けているようではダメで、自分に向けなければならない。あの時あの人の叱責があったからこそ、今の自分があると改めて有り難く思うところだ。

 

 褒めるは甘言、叱るは苦言。甘言には首を傾け、苦言には耳を傾けることだ。叱ってくれる人こそ大切な人だ。誰が好き好んで叱ってくれるか。少しは叱ってくれる人の気持をくめるぐらいの率直さをもてるといい。褒めに褒められて育った人はどことなく温室育ち風でちょっとしたことで萎える。一方風雪のごとく厳しさの中で叱られながら育てられた人は強く逞しい。だからこそ人の辛さや痛みが自分のことのように分る。そのもつ優しさは本物だ。優しさと甘さは全く違う。

 

 イソップ物語に太陽と北風のどちらが旅人の着るマントを脱がせることができるかを競い合い、太陽の勝ちとなる。ところが時と場合によっては北風が勝つこともある。要は太陽と北風、優しさと厳しさの両方を混ぜ合わせながら上手く使い分けることが効果的だ。

 

 <人を見て法を説け>で人は十人十色、十通りの説き方がある。人前で叱って効果がある人、陰で叱ったほうがいい人、ストレートに言ったほうがいい人、柔らかく包みこむように諭したほうがいい人等々。思いを込め、タイミングを見計らい、適切な言葉を選ぶ。そうして共に泣き、共に笑える共感の関係ができたらベストだ。叱られ下手はだんだんと相手にされなくなり、しまいには無視される。叱られ上手は率直で前向きにとらえるから、多くの人から気にかけてもらえる。そうして頂く有り難い助言、苦言をものにして、ますます立派に育って行く。

カテゴリー:エッセー「思うままに」
思うままに No.281

   

※エッセー「思うままに」より 〜毎月更新〜

 

 貴景勝関がついに大関の座を射止めた。いよいよ綱に一歩近づいた。あまたの大型力士がひしめく中で小兵力士の快挙には胸がすく。血の滲むような稽古で磨きつくり上げた突き押しの能力を最大の武器にする。そのなせる所以は小兵だからだ。明らかに体格で劣るハンディキャップを見事に強みにかえそれをバネにして闘うところが相撲ファンを魅了してやまない。突き押しにこだわるのは自分の身体の特徴を最大限に活かすために考えに考え抜いたところの戦略だ。

 

 どこの世界も上へと登りつめていく人に共通して言えるのは並々ならぬ覚悟とたゆまない工夫と努力、そして感謝の念が深い。弱冠22歳というのに武道の精神を重んじるとの口上にはもはや求道者の風格さえ漂う。他の力士も是非見習って欲しいものだ。小学三年生から相撲を始めるが驚くことにその頃の作文に横綱になるという決意のほどが書かれていると聞く。これからの角界を背負い高みへと引っぱっていくものと大いに期待したい。

 

 さて能力は持っているだけでは全く価値はない。宝のもち腐れだ。能力は発揮してこそ価値がある。能力もいろいろだが、そのうちで最高の能力は何か、やはり努力に勝る能力はない。この偉大な力はありとあらゆるところで発揮され通用していく。努力とは頑張る自分を信じて、自分を裏切らない、自分を見捨てない。自分を諦めないことを意味する。自分で決めたことは何があろうがやり続ける。やり抜く覚悟をもってこそでき得るものだ。

 

 どうしてあの人はあんなにうまくできるのだろうか、運がいいから、恵まれているからなどと人は訳も分らず評論するが、ほんとうのところは人の目につかないところで、もの凄い努力を重ねているのだ。運でさえも努力によって自分の味方につけてしまう。

 

 <ただ見れば何の苦もなき水鳥の足にひまなき我が思いかな>一見のんびりと気持ちよさそうに遊泳する水鳥は目に見えない水面下ではせわしく足で水を掻いているのだ。血の滲むような努力、誰にも負けない努力は凡人にはおいそれとできる芸当ではないが、そこまでいかなくても少し緩めれば誰でもできそうな方法がある。<もうちょっと>の法則だ。

 

 その昔アラスカはユーコン河のゴールドラッシュの時代、金鉱の採掘者が一攫千金を夢見て、穴を掘り続けるのだが、苦労の甲斐なく途中で諦める。その後、そこへ他者がやって来て、ほんのちょっとスコップを入れたところついに金脈に当る。それを伝え聞いた前者はじだんだを踏んで悔しがる。<もうちょっと>掘り続けていたらなあと。

カテゴリー:エッセー「思うままに」
思うままに No.280

   

※エッセー「思うままに」より 〜毎月更新〜

 

 スマホがあちこちを我がもの顔で闊歩している。今や子供から大人までスマホを持たざるものはいないぐらいもの凄い勢いだ。また依存症や中毒症状まで引き起すスマホ病、その感染力もすさまじい。電車内などでは決って異様な光景にあう。皆が申し合わせたようにシーンと静寂の空気が漂う。

 

 おおよそ八割がたはスマホに顔を埋める。専ら自分の世界に浸り、無言の行、せわしく器用に指を動かす作業には様々な表情を見せる。こう言っては何だが、読書をする少数派の人が賢そうに見えてくる。駅の階段の上り下りのとき等、スマホ操作しながらの歩行は順列を乱す。後続がつかえて迷惑なことこの上ない。そんなに緊急なことでもあるのか。横から顔をのぞいてみると揃いも揃ってあほ面だ。何でだと少しは周りのことを考えよ、ちゃんと歩けよと。

 

 この間も車を運転中、信号無視して横断歩道を渡る、スマホ片手の若者を危うく轢きそうになった。幸いにもうまくよけることができた。大事に至らなくてホッと胸をなで下ろしたところだが、同時に腹の底からグワーッとどうしようもない怒りがこみ上げてきた。腹の虫がおさまらず、とっさに窓を開けてどなりつけたところだが、当人はスマホに夢中で当方の罵声が聞こえたのか、聞こえなかったのか何ごともなかったように去っていった。

 

 日々のニュースで自動車、自転車、歩行者のながらスマホが原因で痛ましい事故が絶えない。ここまでくると犯罪か公害か。歩きタバコも罰金を科すご時世だ。ながらスマホにも何らかのペナルティーをとったら少しは減ると思うのだが。

 

 誤解のないように断っておくが、スマホそのものを悪もの扱いにする気は毛頭ない。スマホの進化はとどまることを知らず、日常生活には欠かせない、極めて優れて有用な道具だ。要は使い方が問題だ。それが度をはずれると危険極まりない道具であることを承知しておかないといけない。

 

 この頃は、小中学校で子供たちにスマホを持たせていいか、否かの議論がされている。どちらの言い分にも一理はあるが、様々なことを思案するとやはり持たせるべきではない。便利は益や効をもたらすが一方では仇や罪をつくる。また心を痛めるいじめの誘発や学業にもさし障りが多々懸念されるところだ。

 

 そこでこう思う。運転免許証の取得時と同じように、スマホの購入時には使い方のマナー講習を義務化したらどうか。スマホが引き起す弊害を看過するわけにはいかない。

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